自分のことを守らなくなった時に助けてくれる

はすな先生との話で考えさせられたこと。
私の態度、考え方について言われたことから。

いつも私たちは自分の基準でものを決めている。
だけど、本当にやらないとならないこと、選ばないとならないことは状況や条件下で選ぶのではない。
それはもともともどんな状態であれ、自分に必要だからそれを選ぶ、そういうものなのだろう。

AとBがある。
Aはひとつだけ。Bはいくつか個数がある。
そういうとき私はAを選ぶだろう。
そういわれる。


はい、そうだと思います。
本当に選ぶべきものが何かを考える前に、どんな状況にあるかでものを選ぶ。それが今の私。
本当にそれが欲しいか、必要なのか考えなくてはならないのに。
条件が整えばやる、ということであってはならない。自分に例え難しいことであってもやるべきことはやるのだ。

人生、簡単には物事は運ばなくできている。
生きている意味は今の状況から各自学ぶことがあるから生きている。

もういいよ、今世では学びは終わりと言われれば寿命は尽きる訳だから、生きている限り私たちは学ばなくてはならない。
苦しい状況から逃げようとしても結局形を変えて課題はやらされるのだから逃げても時間ばかりがたちだんだんと大変な状況に合わされるだけ。
ならば立ち向かっていくしかないが、人間弱いのでなんとかどこかに逃げ道がないかと探す。
すると大概からだから注意を受ける。


私は逃げようとすると必ず首と肩がガチガチになる。
近頃は鍼なども行かず、痛むときは自分が間違えているのだ。と思い我慢する。(ほんとうはさっさと考えが改められ行動が変わればいいのだが)


正しいときには痛くないから、それをしているときが正解なのだとやっぱり確認できるから、やるしかないのだなという気持ちとになる。
からだの声はバロメーターになるから便利だ。
孫悟空のわっかの様だが。


自分の好き嫌いで行動しなくなる、正しい方向に動くようになる時、どうしても自分を横に置いて行動しなくてはならなくなる。それは自分で自分を守るということをやめたことで、

自分のことを自分で守らなくなると、神様が守ってくれるという。

自分で自分のことを守ろうとするとき、神様は守ってくれないのよ。

自分が神様だと考えてみて。自分を自分で守ろうとする人に手を貸す⁉

自分で何とかするだろうと思うでしょう。

そうじゃなくて一生懸命頑張っている人をみたら手を差し出したいと思わない⁉


やらなくてはならないことをしているとき、神様は初めて認めてくれているのかもしれない。
自分を自分で守るというのはいろいろある。
しなくちゃならなくても出来なくて恥ずかしいことだからやらない、
こちらよりこちらの方が易しそうだからこちらに行くとか、自分に甘いときがそれに当たる。
本当にしなくちゃならないことはそれか⁉

私の場合は間違えていれば頭が痛くなったり、肩が痛くなったり首凝りがひどくなったり、腰が痛くなる。
全て何を注意されているのかはからだの声を習っているので分かる。

正しく進めば痛まない。
これは本当なのだ。
だからしなくてはならなくなる。逃げること、サボることをしているとき具合は悪くなる。

からだの不調は、誰にでも公平に注意を与えてくれる神様からの伝言なのだ。

今そのことに気がつきなさいと言われている。それが何か?それを教えているのが「からだの声翻訳®」です。知っていると自分の無意識で感じていることが分かってしまうのです!!



扉を探して!「からだの声翻訳家®」鶴木マキ

「からだの声翻訳家®」鶴木マキです! こころとからだは繋がっていて、こころの不調がからだに出るという考え方を学びました。 こころは不思議なものです。誰もどこにこころがあるのかはっきりと説明はできないけれど、こころは確かにあると、人は思っています。 こころの不思議さを私なりに考えて見つめていきたいと思っています。

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