老化について
昨日、妹が母とやって来た。
家の近くの百貨店に来る用事とともに、正月に撮った家族写真を引き伸ばして持ってきてくれたのだった。
前日「ハンドヒーリング」のレッスンの際にはすな先生から「老化」について、リーディングした内容を聞いた。
人の最終、自然に老化していく様というのはどういうものなのか?
私達は全て、自然も宇宙も含めて、与り知らぬ存在によって在る。
その存在が分からないから私たちはそれを神という名で呼んでいるのだけど、そのものが私達が生きて死んでいくことをただひたすらみている。
私たちが時間経過により自然に亡くなっていく時「老い」という名の元に朽ちていのが正しい最後らしい。
自然に反して若返り技術が発達し、人は最後まで延命しようと医療を駆使する。
はたしてそれは本人にとって本当にいいことなのか?
そんな話レッスン中にしていたのだったが、
若返ることで、それなりにエネルギーを使っているそうで、見た目が若返っても結局年齢も細胞も若返るのとは違うらしい。
本人が食が細くなるのも、朽ちていく段階でそうなっているので、当たり前のこと。それを無理やり栄養をとらないと、とするのはやはり、自然から反するという。
植物も同じだが最後は枯れ果てる。木も根から栄養が取れなくなり朽ちるように人もその姿になるのが自然なのだろう。
母が来た時、その時のレッスンの話をしてみると黙って聞いていた。
きっとそうなのだと思ったのだろう。まだ、朽ち果てるほどのやせ細り方はしていないが、きっと自然に亡くなる時はそうなっていくのだろう。
年を取り、昔の刺々しい強い感じがなくなり、すっかり気持ちも丸く、周囲に頼るようになってきた母。
からだが自分で思うようにならなくなり、だんだんと記憶力も判断力も低下してきていると己で感じてくると人は変わるものだとみていて思う。
そのように作られている私達だからかもしれない。
からだは私たちに教える(これもまた「からだの声」ではなかろうか?)。年を取ると、精神性を教える為に色々な場所が不自由になるように作られているのだろう。いつまでも若くはいられない。自然と第一線を譲るようにされている。
そうなる前に私も今の母の心根に近づければと思う。
謙虚であるということが出来るように。
自分が出来るとこはほんの少しだと思えば、他者にも求めなくなる。
妹が、会社の後輩のおばあちゃんの最後の話をしてくれた。
おばあちゃんTVみてるのかなぁと思ったら死んでた……
自分でもいつ亡くなったか分からないような最後を迎えられれば大往生だろうな。
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